家に棚が多いことは、必ずしもモノがきちんと収まっていることを意味しない。棚は、問題に一時的な居場所を一つ足すだけのこともある。
整理の現場で、四階建ての戸建てに住む父親に出会ったことがある。収納の本を十冊以上買い、実際にその方法どおりに整理し、徹夜で一晩中整理したことさえあった。部屋は多く、家族も手を動かす意思はあった。だが翌日に見ると、「あまり改善していないようだ」。のちに専門の整理チームが複数回に分けて入り、モノに占領されていた床をようやく出した。
この事例は、収納の知識が無用だと証明するものではない。だが、家が暮らしにくくなるのは、必ずしも方法が足りないからだけではないと、思い出させる。モノの数量が空間の耐えられる範囲を超えたとき、容器を増やし、坪数を増やし、整理の時間を増やしても、問題を先送りするだけになりうる。
空間は、部屋の数だけではない
人は乱雑を見ると、たいてい先に「モノがきちんと置かれていない」と考える。そこで収納ボックスを買い、ラックを足し、衣服の畳み方を改めて学ぶ。モノがまだ空間の耐えられる範囲を超えていなければ、これらのやり方は確かに暮らしを楽にする。
だが収納用品それ自体も、空間を必要とする。ラックが一部屋に入ると、歩ける場所、掃除できる場所、使える場所が先に減る。モノの総量が下がっていなければ、もともとの問題は「入らないうえに、棚が一つ増えた」になる。
部屋の多い家庭も、この境界に当たるのが遅いだけである。部屋が一つ増えれば、「とりあえず置く」角は増えるが、モノが自動で減るわけではない。ものが階をまたいで散ると、家族は各々のモノの帰属をさらに覚えにくくなり、見つからないと新しい堆積点をまた一つ開く。
堆積点は、自ら増えていく
モノが超量になると、家庭はしばしばきわめて安定した補い方を形づくる。クローゼットが満杯なら、服はまずドアノブに掛かる。扉の前が埋まれば、すぐに使うものはベッド脇へ移る。ベッド脇も満杯になれば、引き出し棚を買い、さらに天板へ積み続ける。
ある四坪の部屋では、ベッド、クローゼット、チェスト、三段棚が天井近くまで重なり、扉は背後の棚に阻まれ、人は横向きで入るしかなかった。バッグの上に書類、書類の上にタオル、その上にさらに服が重なる。一つ一つの置き方は、いずれも真剣な整理のように見える。積み重なると、部屋はもともとの機能を失う。
これは誰かが努力していないということではない。整理の行為が眼前の位置だけを扱い、モノの総量と次の流入を扱っていないということである。家が絶えず新しい角を探さねばならないとき、空間は暮らしの支えではなくなり、モノの一時保管の仕組みになり始める。
まず数量を下げ、それから何が必要かを決める
別の、長年休業していた家庭工場では、整理チームは最後にたしかに鉄棚を四基増やした。だが鉄棚は第一歩ではなかった。その前に大型家具を大量に片付け、動線を組み直し、四日でごみ二十三袋と大型家具十一点を出した。順序が逆であれば、鉄棚は新しい堆積点になった可能性が高い。
長期のケアを終え、身体がいまだ回復の途上にあった別の家主は、大量のモノを片付けたあと、書斎にもともとあったラック二基がすでに不要だとわかり、そのまま外した。急いで新しい収納品で壁面を埋め戻しはしなかった。モノの総量が下がると、容器の需要もともに下がることがある。
これらは個別の整理事例であり、一般家庭の統計とみなしてはならない。だが共通して指し示す、実践できる順序がある。まず棚卸しと減量、次に何を残し、直し、譲り渡し、材料端へ戻すかを判断し、最後にまだ必要な収納用具を決める。
モノを送り出すことも、整理である
整理とは、一つ一つのモノをより深く隠すことではない。残すものにははっきりした用途が要り、去るものにもふさわしい行き先が要る。家庭にとってそれは、再使用、譲り渡し、リサイクル、あるいは責任ある最終処分でありうる。
暮らしにおける循環経済の起点は、家を展示空間に変えることではない。使われなくなったあと、モノがその場に閉じ込められ続けなくてよいようにすることである。収納が扱うのは位置である。減量と流通が、モノの次の運命を扱い始める。
本当に使える家とは、モノがすべて隠された家ではない。人が歩け、必要なモノを見つけられ、適切なときに使わなくなったモノを送り出せる家である。棚は暮らしを助けることはできる。だが、判断を代わりに完了することはできない。
出典:廖心筠 Facebook 粉絲專頁(內容整理與改寫)
