あなた自身へ:覚醒

まず自分自身を見つめることで、生活を変える力が生まれる

一日が本当に始まる前から、私たちはすでに多くの物事に押し流されていることが多い。目覚まし時計が鳴り、スマートフォンを手に取り、メッセージを見て、仕事に返信し、通勤を急ぐ。体は疲れているのに、それでも「もう少しだけ頑張ろう」と自分に言い聞かせる。そうして時が経つうちに、私たちは「忙しさ」を努力と取り違え、「習慣」を選択と思い込み、こう問うことを忘れてしまう。今の自分の生活は、本当に自分が望んだものなのだろうか。

ビジョン協会がいう「覚醒」とは、突然人生の真理を悟ることでもなく、誰もがすぐにすべてを変えるよう求めるものでもない。それはむしろ、高速で回り続ける日常のなかで、まず自分のために一度立ち止まってみることに近い。自分の体、感情、そして必要としているものを見つめ、さらに私たちが毎日費やしている時間、お金、注意が、人生をどこへ運んでいるのかを見つめることである。

ごく小さな変化もある。本当は必要のないものを一つ買わずにおくこと、少し早く眠ること、一食をきちんと食べきること、長く連絡していなかった友人を気にかけること。理不尽なことに出会ったとき、「どうせみんなそうしているのだから」と自分を納得させるのをやめること。こうした選択は大したことのように見えないが、生活の主導権を取り戻す始まりである。

覚醒は、自分のことだけを気にかけるものでもない。食べ物がどこから来るのか、物がどのように作られているのか、便利さの裏側で誰がその代償を負っているのかに目を向け始めると、個人の生活が決して孤立したものではなかったと気づく。一つ一つの消費、一つ一つの関係、沈黙するか声を上げるかという選択のすべてが、家庭や社会、そして環境とつながっている。

とはいえ、すべての責任を個人に押しつけたくはない。より多くの選択肢を持つ人もいれば、今日を生き抜くことに精一杯の人もいる。健康、教育、収入、住環境は、その人に何ができるかを左右する。覚醒は、比較的余裕のある立場から他者を責めるためのものであってはならない。違いを理解したうえで、資源を分かち合い、より多くの人にも選択肢が生まれるようにすること。それこそが覚醒の意味である。

だから、目覚めて生きることは、完璧な生活を送ることと同じではない。人は疲れ、ためらい、慣れた古い道へ戻ることもある。大切なのは、何度でも繰り返し確かめようとするかどうかである。何が残す価値のあるものか。何がもう自分に合わなくなったのか。自分のために、そして身近な人のために、もう少し何ができるのか。

ときに覚醒は、自分が知らないと認めることでもある。学び直し、情報を確かめ、自分と立場の違う人の話を最後まで聞こうとすること。毎回すぐに立場を表明しなければならないわけではない。まず理解し、それからどう行動するかを決めること。それ自体が一つの責任のあり方である。

世界を変えるというと、とても大きな、少しスローガンのようにも聞こえる。しかし世界は遠くにあるのではない。それは、起きた後に下す最初の決断のなかにある。誰かが生活に押し流されるだけの存在でなくなったとき、その人には選択が生まれる。そして選択が積み重なり始めれば、力は少しずつ自分の手に戻ってくる。

覚醒は一つの出発点である。まず自分自身をはっきりと生き、そのはっきりとしたものを、他者を照らす小さな光へと変えていくことだ。