十戸の家庭を整理したあと、リストを合計すると五百八十袋であった。ごみ二百十九袋、リサイクル百六十六袋、譲り渡し百九十五袋。ごみは約三割七分、ほかのモノは材料のリサイクルか次の使用者へとそれぞれ向かった。
この数字は、一般家庭の抽出統計ではない。十戸の出自、家族構成、整理の範囲は、完全には揃っていない。だが重要な観察を一つ与える。「ため込み」と形容されるモノは、すべてが価値を失ったわけではなく、「捨てる」か「残す」かの二択だけで理解すべきでもない。
残すことは、必ずしも大切にすることではない
まだ使えるモノが、長く使われず、譲り渡されず、次の購入の代わりにもなっていないなら、その価値は実際にはその場で止まっている。原料、製造、輸送のコストはすでに発生している。家庭に入ったあと、暮らしへは戻っていない。
流れが止まったばかりのとき、ものはまだ無事であることが多い。長く置けば、保存環境、仕様の変化、材料の劣化が、選択肢を徐々に狭める。残すこと自体が問題なのではない。問題は、そのモノにまだはっきりした使用の場面があるか、次にそれを必要とする人の手へ届く機会があるかである。
したがって「残すほうが捨てるより環境にいい」は、そのモノがまだ使われるときにだけ成り立つ。入ってきた日から一度も開かれていないなら、残すことは処分の時期を先送りしているだけになりうる。
無事なモノも、閉じ込められうる
譲り渡しが最も多かった一戸は、長期のケアを担っていた家である。母親の死後、家主は譲り渡しの物品を五十八袋出した。テレビ、テレビ台、新品の厨房用品、過量の消耗品、長く使っていなかった小型家電が含まれる。多くは保存状態がよかった。家に、長いあいだ出口がなかっただけである。
三人の子どもがいる別の家庭では、譲り渡しの物品を五十四袋出した。大型家具とバスケットゴールが含まれる。組み立て玩具は二十〜三十箱あり、未開封のものもあった。これらのモノにとって難しいのは、すぐに壊れることではない。もともとの家庭の需要がすでに終わり、新しい使用者がまだ現れていないことである。
ある四坪の部屋では、十八袋が譲り渡しできた。衣類六袋と傘五十本が含まれる。長年休業していた家庭工場は、シール、コピー用紙、揃いの百科事典を非営利組織へ渡した。もともとの場所では雑物であったものが、使用の場面が変わって、再び資源になった。
その場を離れることは、流通の完了ではない
モノが再び流れるには、少なくとも引き取り手、ふさわしい経路、十分な時間が要る。どれか一つ欠けても、その場で止まることがありうる。
長年封じられていた部屋から、ごみ五十一袋、リサイクル零袋、譲り渡し一袋が出た。家主はたいへん物を大切にし、教科書も練習帳も一冊欠かさなかった。だが長年の封印に加え、当日の整理範囲と移動の条件が限られていたため、大半のモノはすでに再使用が難しかった。リサイクル零袋は、部屋にリサイクルできる材料が一切なかったと直接読むことはできない。限られた現場の記録を、一般の結論へ広げてもならない。
別の事例では、大きな袋二袋のモノを同居の家族が確認したうえで、自分の部屋へ持ち帰った。リスト上は譲り渡しと記されたが、実際にはその建物を出ていない。位置が変わることは、流通の完了ではない。もともとの堆積状態を本当に離れ、次の場所で使われ続けることが要る。
判断を、処分より先に置く
家庭の整理は、最後の一歩をごみ収集車に渡しがちである。空間は早く出せるが、状態の異なるモノを一つの判断に載せやすい。まだ使える家具、未開封の用品、譲り渡せる衣類と、すでにカビが生えたものや期限切れのものとでは、行き先が異なる。
より整ったやり方は、まず棚卸しし、状態に応じて経路を分けることである。再使用に適するものは引き取り手を探し、もともとの機能は終わっても材料としての価値が残るものはリサイクルの仕組みへ入れ、譲り渡しに適さないものだけ最終処分へ進める。すべてのモノを残せという要求ではない。その場を離れる前に、そのモノにふさわしい判断を先に与えることである。
循環経済は、「捨てるな」を新たな圧力に変えることではない。本当に問うのは、モノにまだ価値があるとき、家庭は出口を見えているか、使用価値を失ったあと、責任ある処理の経路があるかである。
家に残すことは、必ずしも大切にすることではない。間に合ううちに使われ、譲り渡され、あるいはふさわしい材料の仕組みへ入ることこそ、モノの価値が見られ続ける仕方である。
出典:廖心筠 Facebook 粉絲專頁(內容整理與改寫)
