「まだ使える」は、物品が家に何年も残る理由になりやすい。だが使われていない物品は、新しい購入の代わりにもなっておらず、誰の暮らしの助けにもなっていない。棚、部屋、そして決める力を占めているだけである。
十世帯の整理記録は、合わせて五百八十袋の物品を挙げた。百九十五袋が譲り渡し、二百十九袋がごみ、百六十六袋がリサイクルへ入った。これは全家庭の統計ではなく、袋の大きさや分類の条件も揃っているとは限らない。だが家を出た物品に、異なる運命があることを思い出させる。リサイクルは材料の側の処理である。次の人に使い続けられることこそ、もう一条、見られるべき道である。
その場に残すことは、自動的に大切にすることにはならない
若い住まい手が整理するとき、自分では決めにくい物品を戸口の外へ運び、母親の確認を待った。母親は捨てがたく、まだ使えると思うものを自分の部屋へ持ち帰った。大きな袋二袋の物品は、譲り渡しを終えたように見えたが、実際には同じ建物のなかにあり、家の総量は減っていない。
これは、長輩や若い世代の努力が足りないと責めることではない。家に選べる譲り渡しの仕方がないと、物を大切にすることは保存だけになりやすい。保存が必要なこともある。だがどの物品も「あとで使うかもしれない」で決定を先送りすれば、空間は期限のない倉庫になる。
時間は、物品の行き先も変える
ものを捨ててはならない古い集合住宅で、一部屋を整理したとき、ごみ五十一袋、リサイクル零袋、譲り渡し一袋が出た。残されたものが最初から価値を持っていなかった、という意味ではない。長期の遊休、手入れの不足、分類できないことが、使える時間の窓を徐々に閉じる、ということである。
反対に、ベランダに二十年置いたタイルをネットで送り出した人もいる。家庭工場が、シール、コピー用紙、上製本を必要とする組織へ寄付した例もある。それらが流れえたのは、物品がとくに高価だったからとは限らない。まだ見られる間に合い、引き取る人にもちょうど出会えたからである。
流通に要るのは、好意だけではない
十数年置かれたランニングマシンはなお動いた。だが掲載し、返信し、時間を合わせ、運び、そして引き取る人が現れないリスクに向き合わねばならなかった。二日待ったあと、家族は分解してリサイクルへ送った。この結果は、誰かが浪費したのではない。大型のモノの流通コストが、搬出より高いことが多い、ということである。
したがって、日常に物を大切にすることは、個人がより愛情深くなれと求めるだけでは足りない。地域の交換の日、信頼できる寄付の窓口、明確な状態の説明、負担できる運搬の助けは、いずれも物品が遊休のまま廃物になる確率を下げる。物品が次の使用者を見つけることは、経路を要する暮らしの能力である。
譲り渡す前に、先に相手の立場で一度考える
すべてのものが送り出しに適するわけではない。期限切れの食品、カビの生えた物品、状態の悪い衣類を人に渡すことは、片付けの責任を移しているだけである。いちばん単純な境界はこれである。自分の家族に使わせないものは、善意として他人に渡すべきではない。
物を大切にすることは、すべてのものを残すことではない。まだ使えるときに、人にも資源にも責任ある選択をすることである。残して使うこと、譲り渡すこと、リサイクル、処分には、それぞれ位置がある。大切なのは、「捨てがたい」を、物品が次の機会を失う原因にしないことである。
出典:廖心筠 Facebook 粉絲專頁(內容整理與改寫)
